設立100周年に向けて

創業期Founding Period

1937年、東洋空機製作所を設立

日本一のニューマチック(空気動工具)職人になるべく大阪の瓜生製作にて『モノづくり』の腕を磨いた創業者は、独立して出身地である福岡に戻りました。
1937年2月11日、福岡市竹下の土地で炭鉱向けエアツールを製造する会社を設立。社名は「将来、東洋一のニューマチック工場にしたい」という強い願望を込めて『東洋空機製作所』と命名。

この頃のニューマチックツールといえば、ほとんどが炭鉱向けで、炭鉱の本場である九州に位置したことは創業期において最大の利点といえます。
あるとき西松組(現在の西松建設)から宮崎の村所発電所用のドリフター(大型削岩機)10台という大型受注に成功。
この件をきっかけに、その後は生産が軌道に乗り、会社も活気づいていきました。その年の12月9日、合資会社から株式会社に組織を変え、資本金も増やし、再スタートを切ることになります。

その後、三井鉱山からの修理依頼などを試行錯誤することにより、東洋空機における技術水準の向上と新製品開発へとつながっていくのです。

戦後の復興期Recovery Period

石炭!石炭!石炭!

石炭は戦後の日本に残された唯一の天然資源で、復興再建のために国策として石炭の大増産に取り組みました。

1951年、長崎の三菱崎戸炭鉱から「狭い炭坑の中でも使用できる『坑内鉄柱撤去用のチェーンブロック』を開発してほしい」との依頼を受けます。

当時ほとんどの炭鉱ではカッペ採炭が行われていましたが、狭い坑内での鉄柱撤去作業は困難を極め、危険であるだけではなく非効率的な作業だったのです。そんな現状を知った創業者は寝食を忘れて小型エアチェーンブロックの開発に励み、ついに翌年9月に第一号機として3トン型が完成。現場のニーズにマッチした東空エアチェーンブロックは、その後も改良に改良が重ねられ、国内の多くの炭坑で採用されていきました。

出銑口開孔機しゅせんこうかいこうき

エアチェーンブロックをつくりあげた翌年(1953年)、八幡製鉄所の技術者から「高炉こうろ(鉄溶鉱炉)で使う、国産の出銑口開孔機しゅせんこうかいこうきをつくってほしい。もし可能であれば遠隔操作が行えるものがいい。」との依頼を受けます。

1955年、試行錯誤の末に国内初のリモコン式の出銑口開孔機がついに完成。
国内外の鉄鋼メーカーの溶鉱炉にも次々と採用されました。

転換期Turning Point

炭鉱の斜陽化とマーケットの転換

東洋空機は戦後、炭鉱に大きく依存していたこともあって、エネルギー革命による炭鉱の斜陽化に伴って経営が急速に悪化。

1956年、着々と日本の復興作業は進んでいましたが、それでもまだ日本が欧米諸国に比べて、土木建築の面で非常に遅れていることに気がつきます。そして、公共投資による土木関連事業が活発になってくることを見越して、すぐさま土木関係のツールを主力製品にする方向に舵を切りました。

高価な最新鋭の加工機を積極的に工場に導入し、輸出を拡大しだしたのもこの時期。
1970年代に2度にわたって起きたオイルショックで日本国内が不況にあえぐ中、数年前より行っていた輸出事業が実を結びこの危機を乗り越えることができたのです。

油圧ブレーカとの出会い

「既存の設備と技術力の延長線上に製造可能な新製品はないものか?」と、ラスベガスで開催された建設機械ショーに参加し、そこで油圧ブレーカと出会うことになります。

独自設計による油圧ブレーカ開発プロジェクトが開始され、日夜試行錯誤を繰り返し試作品が完成。フィールドテストを依頼した土建会社からも高評価を獲得するに至ります。

1982年4月より本格的に生産を開始。東洋空機における主力製品にまで発展しました。

設立100周年に向けてToward Our 100th Anniversary

時代は移り変わり・・・。
シンプルかつ高品質を売りにした様々なツールを製造する弊社では、開発工場をはじめ新たなモノづくりへの環境構築が着々と進んでおります。

昨今の世界情勢の激変により、私どもを取り巻く環境は非常に厳しくなっております。しかしながら、創業期や戦後の混乱期に何度か経営の危機に直面しつつも不屈の精神と執念で乗り切り今日の礎をつくりあげた先人たちを見倣い、培ってきた技術力と信頼により、社会的貢献を続け、業界を牽引する企業の一つとして製造を続けております。

「東洋一のニューマチック工場にしたい」という強い願望が込められた社名に恥じぬよう、次は「世界一のニューマチック工場になる」という心意気のもとで、2037年の設立100周年に向け、東洋空機の新たなる挑戦が始まります。